【広聴・広報】ふるさと物語 182 『医業にたずさわる人々(5)』 近代人物脈 (61)
最終更新日:2023年03月27日

「ふるさと物語」【182】〈昭和54年9月10日発行「広報しわ」(第290)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、〇〇町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。また、 掲載記事の無断転載を固く禁じます。

『医業にたずさわる人々(5)』 近代人物脈 (61)

明治後期になると、新たに日詰町では木村頌太郎と内城隆徳、古館村では吉田寛作、志和村では岩泉周甫と細川玄養、水分村では菅原広直がそれぞれ就業するようになりました。
木村頌太郎(明治元年生まれ)は、先に述べた玄硯の長男です。仙台の杏林庵で医術を学んだといわれています。大正十四年没。
内城隆徳(明治十年生まれ)は、斎の長男で同家の八代目に当たります。明治三十三年に仙台の第二高等学校医学部を卒業。翌年医術開業免状を取得すると、直ちに盛岡市大沢川原小路で開業しました。また、〇〇病院医員に嘱託され、私立〇〇医学校の教授にも任用されました。そして明治三十八年からは日詰町で開業するようになりました。昭和三年から同二十二年まで〇〇郡医師会長をつとめています。昭和二十五年没。
吉田寛作(安政三年生まれ)は、不動村の白沢から移ってきた人です。二日町新田で開業していましたが、後に青森県の浅虫温泉に移住しました。昭和七年没。
岩泉周甫(慶応元年生まれ)は貞庵の長男です。東京で医術を修めたといわれますが、修業先は知られていません。上平沢で開業しました。昭和七年没。
細川玄養(安政三年生まれ)は玄達の長男です。盛岡で修業したもののようですが確かではありません。土館で開業しました。大正十四年没。
菅原広直(生年不詳)は、宮城県志田郡鹿島台の出身で、仙台で修業したといわれます。小屋敷で開業しました。明治四十三年没。
大正期になると、日詰町では木村雄蔵、志和村では坂本正喜が開業するようになります。
木村雄蔵(明治二九年生まれ)は政太郎の子です。大正十年に千葉医学専門学校を卒業し、同十四年から父のもとで就業しましたが、一般には「中風の先生」の名で知られました。また、貧民からは料金をとらないという仁術の人でもありました。昭和二十六年から同三十九年まで〇〇郡医師会長をつとめました。昭和五十三年没。
坂本正喜(明治十五年生まれ)は水分村の出身です。私立〇〇医学校を卒業後、上平沢で開業しました。昭和十年没。

---佐藤 正雄(故人)---

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