【広聴・広報】ふるさと物語 60 『1満室山瑞泉寺(彦部)』廃寺をたずねて(1)
最終更新日:2023年03月27日

「ふるさと物語」【60】〈昭和44年4月10日発行「広報しわ」(第165)〉

「広報しわ」に掲載された記事を原文のまま転載する形式により、〇〇町の歴史や人物について読み物風に紹介しています。
(第1回昭和37年3月号から第201回昭和56年4月5日号まで掲載)
そのため、現在においては不適切とされる表現や歴史認識がある場合がありますのでご了承願います。

『1 満室山瑞泉寺(彦部)』廃寺をたずねて(1)

水沢市黒石の正法寺に、唐本(からほん)(中国製)の金剛般若波羅密経(こんごうはんにゃはらみっきょう)二巻が肖像されていますが、その奥書によると、この経本は、天正四年(1576)三月三日に「此波(しは)群彦部郷満室山瑞泉寺住持禅恵」が寄進したことになっています。これによって、当時、彦部に瑞泉寺という寺院があったことが知られますが、ただ、所在や由緒などについては、全くわかっていません。あるいは、寺沢の地内にあったのではないかとも考えられますが、今後の研究をまちたいと思います。
2 愛宕山行岸寺(彦部)
暮坪(くれつぼ)の四ツ家と浄海坊(じょうかいぼう)の中間にありました。盛岡大勝寺の末寺でしたが、創立年代や開基は不明です。愛宕権現社の別当をつとめ、享保四年(1719)八月には地頭の中野光康から高六石を同社の社領として寄進を受けています。
寺院というよりも、むしろ羽黒派山伏としての性格が強かったと思われます。明治にならない前に廃寺となりました。
3 御庵山西念寺(彦部)
この寺のことは、県立図書館所蔵の『御国中寺院』などにみえていますが、彦部村にあって本誓寺の末寺であるというだけで、それ以上のことは記録的にも口伝えの上でも一切知られていません。
しいて考えるとすれば、山号の上から後庵家がそれに当てられましょう。同家の先祖橋本作内は、是信に従って彦部に下向したといわれ、是信の本誓寺創建と共に、自分も草庵を設けてここに定住したと伝えられます。後庵家の家号はこれに由来するものです。同家では作内の下向に当たって親鸞(しんらん)の妻から贈られたというマンダラ織りの掛軸を代々伝えてきましたが、このため是信の聖地を訪れる信徒の中には、同家に至ってこれを拝するものも少なくありませんでした。
このような関係から、同家に対しては、在家でありながら特に山寺号が認められたのかもしれません。いずれ、詳しくは後の研究にまちたいと思います。
−−−佐藤 正雄(故人)−−−

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